COLUMNコラム

JIDORIの洋楽雑考

いろいろな切り口やテーマで、音楽ライター、JIDORIが洋楽を斬る!
Vol.11

匿名のセレブリティ〜ロイ・オービソン

2018.07.02
ロイ・オービソン
皆元気? 洋楽聴いてる?世はワールドカップ・ロシア大会の真っ只中。日本選手の健闘に期待したいものだ。
さて、今回ご紹介するアーティスト。あのブルース・スプリングスティーンをして、"私はボブ・ディランのような歌詞を書き、フィル・スペクターのような曲を作りたかった。そして、この人のように歌いたかったのだ。"と言わしめるほどの超大物。さて、この御仁とは?
日本ではやはりこの曲、「Oh, Pretty Woman」の作者であるロイ・オービソンである。同曲の印象があまりに強烈であるため、この人がボブ・ディランとバンドをやってたという事実もつい忘れられがちなのだが、欧米での評価は非常に高い。
1936年4月テキサスの生まれ。6歳の誕生日に父親からプレゼントされたギターが音楽に目覚めるきっかけだったのだが、7歳の頃には"もう僕には音楽以外何もない"と、将来へのヴィジョンを固めていたらしい。
高校在学時代にバンドを組み、本格的な音楽活動を開始したオービソン。そんな彼の大きな刺激となったのが、彼よりもわずか1歳年上のエルヴィス・プレスリーだった。地元のTV番組に出演したオービソンのバンド、The Wink Westerners と共演した際にプレスリーが所属していたSun Recordsの社長サム・フィリップスに連絡するよう促したのは若き日のジョニー・キャッシュ(彼も同レーベル所属)。当初はけんもほろろの扱いを受けたオービソンなのだが、改名し、The Teen Kings を名乗り始めたオービソンのバンドは話題を集めるようになり、テキサスのローカル・レーベルから"「Ooby Dooby 」を1956年3月にリリース。その評判を聞きつけたサムはバンドとの契約にこぎつけた。
同曲のリ・レコーディング盤をデビュー・シングルとしてThe Teen Kings は同年5月に全米デビュー。Billboard紙のシングル・チャート59位を記録、まずまずのスタートを切る。
しかし、印税の配分などをめぐりバンドは程なくして解散(もう、当時からこういう問題はあったのね)、オービソンは作曲に勤しむように。同じくテキサス州出身のソングライター、ジョー・メルソンと知り合うのは1958年のこと。
新興レーベルMonument Recordsとの契約をゲットしたオービソンはメルソンとの共作で「Uptown」、「Come Back to Me (My Love)」などの楽曲を生み出す。その過程で、後にオービソンのトレードマークとなる独特なファルセット唱法、オペラ風な楽曲構成などの下地が形作られていった。
1960年にリリースされたシングル「Only the Lonely」は、初期の集大成である。全米チャート2位、そしてイギリスでは1位を記録した同楽曲で、オービソンは一気にスターダムへ。完成時にはエルヴィス・プレスリーに売り込みたいと考えていたというこの楽曲。リリースされた作品を聴いたプレスリーが箱一杯のシングル盤を買い込み、知人に配ったという微笑ましいエピソードも残っている。
「Blue Angel」、「I'm Hurtin'」、「Running Scared」、「Crying」といったヒットを量産するものの、ソロ・キャリアの成功を考え始めていたメルソンとの関係は終わりを告げる。
1963年、シングル「In Dreams」リリース後に、オービソンは既に人気を確立させていたイギリスを訪れる。デュアン・エディの代役として、リヴァプール出身の若手バンドのサポートを引き受けたのだ。"何で、オレが前座なんだよ!ところで、the Beatle って何なんだよ!"とコボすオービソンの肩をぽんと叩き、"ボクなんだ..."と話しかけたのはジョン・レノンだった。そう、The Beatlesのサポートだったのである。
しかし、そこは男の意地とでも言うべきか(この方のパーソナリティとは最も縁遠い感じだが)、新人相手にオービソンは大奮闘。何と14回のアンコールを求められることに。最後にはレノン、マッカートニーの2人に楽屋で押さえ込まれてしまったらしい。
後にリンゴ・スターが、"ボクたちは楽屋で、ロイが浴びている大歓声を聞いていた。彼はそこに立っているだけ、動くどころか何もしないのに..."と半ば呆れながら語っていたように、オービソンのパフォーマンスの特徴と言えば、アメリカ版東海林太郎(古過ぎだ、例えが)とでも呼ぶべき、直立不動の体勢で歌うこと。コメディアン、"The Blues Brothers"で有名なジョン・べルーシも"Saturday Night Live"の中で、オービソンのコスプレをし、「Oh, Pretty Woman」を歌っている途中にステージから落ち、バックバンドに助け上げられると、まだ直立不動のままだったというネタを披露している。
また、このThe Beatles とのツアーから、彼のもう一つのトレードマークであるサングラスも定着。もともと極度のあがり症(アーティストなのに)だったオービソン、飛行機にいつも愛用していたメガネを置き忘れ、仕方なくサングラス姿でステージに上がったところ、その状態に満足し必需品となったらしい。
このおよそスター性とは無縁な彼を評してLife Magazine誌がつけたニックネームが"匿名のセレブリティ"というものであった。
同時期にオービソンとコラボレーションをスタートしたのが、やはりテキサス州出身のライター、ビル・ディーズである。UKチャートで1位を記録した「It's Over」リリース後、2人が作ったのが「Oh, Pretty Woman」。1964年秋にリリースされた同楽曲は英米で1位を獲得。アメリカでは14週、イギリスでは18週にわたってチャート・インするという快挙を達成。
しかしその後、若き日から彼を支えていた妻クラウデットと離婚(彼女の不倫が原因。ただしすぐに復縁)、レコード会社もMonumentから、MGMへと移籍する。
1966年6月6日、クラウデットがオートバイ事故で死亡。また、時代はカウンター・カルチャー真っ盛りとなり、人々は彼の音楽への興味を徐々に失いつつあった。
そして、イギリス滞在中の1968年9月14日、彼のテネシー州の自宅から出火、2人の息子を失ってしまう。
彼自身の1970〜80年代半ばのキャリアで、特にドラマティックなものは見出せない。潰瘍の悪化など、健康面の不安にも苛まれていたようだ。しかし、その音楽に影響されたアーティストたちは、続々とその数を増す。ブルース・スプリングスティーンはコンサートをオービソンの楽曲で締め、リンダ・ロンシュタットはシングル「Blue Bayou」をリリース(1977年:全米チャート3位)。そして、個人的に"なぜ、このヴァージョンをCMで使わんのだ!"といつ聴いても力が入るVan Halenの「Oh, Pretty Woman 」(1982年)など。様々なアーティストからのリスペクトが徐々にオービソンの名を世に押し戻すことになる。
1986年公開、デヴィッド・リンチ監督の"Blue Velvet"に「In Dreams」が起用されることに。"Eraserhead"、"The Elephant Man"など、カルト風の作品を世に送り出していたリンチ監督からの突然のラヴコールに、当初オービソンはかなり当惑し、映画を観ても満足できなかったようだが、殺気立った映像に乗る、儚げで美しい楽曲という絶妙なコンビネーションは、文字通り多くの映画、音楽ファンから大絶賛を浴びるのだった。
翌年には「In Dreams :the Greatest Hits」とタイトルされた、過去の楽曲のリ・レコーディングで構成されたベスト盤をリリース。かくも長い不在に終止符を打ったのである。
冒頭のスプリングスティーンのスピーチは同年開催のR&R Hall of Fame授賞式で、オービソンへの謝辞を抜粋したもの。
1988年、オービソンは新たなパートナーとして、ELO(Electric Light Orchestra)のジェフ・リンに白羽の矢を立てる。リンは、オービソンにとっても思い出のバンド、The Beatles のジョージ・ハリスンとの作業を進めており、ジョージはオービソンにシングルへの参加を依頼。3人はボブ・ディランに連絡(スタジオを借りるため)、そのままトム・ペティ宅でギターを借り受け、ペティを引き連れてディラン邸へ。そこで生まれたのが「Handle with Care」、スーパー・バンド、The Traveling Wilburysのファースト・シングルである。
当初、ディランはマリブにある自宅を貸すだけで、プロジェクトには参加せずメンバー達のためにバーベキューを焼く役目だったというが、そんな恐ろしいことできるのか、ホントに。
異母兄弟5人が作ったバンドという触れ込みで、全員がWilbury姓を名乗る覆面バンドだった。これはオービソンの意向というよりは、参加メンバーそれぞれの所属レーベルとの問題を避けるためだろう。
かくして「Vol.1 」とタイトルされ、1988年10月に発表されたアルバムは全米チャート3位を獲得、およそ1年の長きにわたりチャートに居座った。
また、その翌月にはソロ作品「Mystery Girl」が完成。第2の黄金期を迎えるはずのオービソンだったのだが、12月6日に心筋梗塞で死去、享年52歳だった。
突然すぎる訃報の翌1989年、オービソンは自身の憧れだったプレスリー以降初となる記録を残すことになる。それは"本人死後全米アルバム・チャートTop5に2枚のアルバムを残したアーティスト"というものであった(Traveling Wilburys 4位、Mystery Girl5位)。
"僕はスーパースターではないよ。普段着でステージで輝ける人もいるが、僕はそうではない。念入りに準備する。オーディエンスに与えるべきもの、それは僕の音楽であり、曲なんだ。"
と自らのパフォーマンスについて語っていたオービソン。どこか世間の喧騒を避けていたような印象さえある。初期レコーディングに参加していたジョー・メルソンは"ただスタジオで立ち尽くし、流れてくる音楽を聴いていた。それは間違いなく、世界で最も美しいものだった。"と語っているが、サングラス越しのオービソンには、世界で最も美しい光景が見えていたのかも知れない。では、また次回に!
ロイ・オービソン

● Profile:JIDORI

メジャーレコード会社の洋楽A&Rの経験もある音楽ライター。「INROCK」を始めとする洋楽系メディアで執筆中。ユニークで切れ味の鋭い文章が持ち味。
 
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