COLUMNコラム

JIDORIの洋楽雑考

いろいろな切り口やテーマで、音楽ライター、JIDORIが洋楽を斬る!
Vol.26

〜 ひたすら書く、とにかく書く〜バート・バカラック

2020.01.17
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皆元気?洋楽聴いてる?オスカー/アカデミーの前哨戦とも言われる第77回ゴールデン・グローブ・アウォードの授賞式が先日1月6日に開催された。コマーシャルな作品を避ける(?)傾向のある同賞、予想通り「Joker」は授賞ならず。とは言え、ホアキン・フェニックスは念願の主演男優賞受賞!前回ご紹介したミュージカル映画「Cats」の挿入歌、アンドリュー・ロイド・ウェバー、テイラー・スウィフト共作の「Beautiful Ghosts」もBest Original Song部門にしっかりノミネートされていた。つらつらと受賞者/作品名を見ていたら、またしても気になる人物を発見。
TV映画ミニ・シリーズ賞(Best Television Limited Series or Motion Picture Made for Television)を受賞したのが、米HBO製作の「Chernobyl」。昨年日本でもTV放送(BS/ケーブル)された当作品。タイトル通り、1986年、旧ソ連のウクライナで起こった史上最悪の原発事故を扱った、とてつもなく重たい内容のドラマなのだが、同作の監督ヨハン・レンク(Johan Renck)に反応する方はかなりの北欧音楽通である。現在では北欧を代表する映像作家へと成長したスェーデン出身のレンクなのだが、1990年代にはStakka Boというユニットでバンド活動を行なっていた。実際、同じスウェーデンのバンドThe Cardigansのサポートで来日公演も経験している。
ちなみに彼と幼なじみで、共に映像製作会社を立ち上げた、こちらも北欧のビッグ・ネーム、ヨナス・オーカールンド(Jonas Åkerlund)も元はバンドマン。Bathoryというブラック・メタル・バンド出身。しかし、北欧、やっぱり冬が長いし、寒いからずっとスタジオにいて、映像のクオリティも必然的に向上するというのは少々こじつけか…とりあえず、その来日公演以来会ってないのだが、おめでとうヨハン!
さて、少々前置きが長くなったが、ここから本題。1981年のアカデミー、ゴールデン・グローブをダブル受賞した御仁。映画「Arthur」(ミスター・アーサー)の主題歌で、クリストファー・クロスの名を一躍有名にした(と同時に、“こ、このルックスであの声が…”という驚きもあった)「Arthur’s Theme (Best That You Can Do)」の作曲者としてクレジットされているバート・バカラックである。
sara
1928年5月生まれ、御年92歳である。しか〜し!何たる活力、ここ数年の間も何度かライヴ活動を行なっていらっしゃる。もう、ひれ伏すしかないわ。
ミズーリ州カンザス・シティ出身のNY育ち。ユダヤ系の家庭であった。“周囲の子供は皆、カトリックなので、自分がユダヤ人だと気付かれたくなかった”とはご本人の言葉。幼少期から始めたピアノはアマチュアとはいえ作曲家でもあった母親から習っていた。
クラシックのレッスンに嫌気がさしていた彼が多大な影響を受けたのがビバップ・スタイルのジャズ。当時から大きな賑わいを見せていたNY52番街のクラブに(ニセの身分証明書を使用して)入り浸り、ディジー・ガレスピー、カウント・ベイシーらのライヴに魅せられていた。その後確立されるバカラック独自のコード展開はこの時期の影響が大きいと言われている。
陸軍での従軍生活を終え、それから3年をイタリア系アメリカ人シンガー、ヴィック・ダモーンのピアニスト兼指揮者として過ごす。ダモーンの元を去った後も、同様のスタイルで活動していた。その中には彼の最初の妻、ポーラ・スチュアートも含まれる。
1956年、バカラック28歳の時に最初の転機が訪れる。作曲家ピーター・マッツの推薦で、あのマレーネ・ディートリッヒのナイトクラブでのショーのアレンジャー兼指揮者という大役をゲット!その後、ディートリッヒの音楽監督のような役割も果たすこととなり、1960年代初頭まではツアーに同行、その合間に作曲活動を展開する。その後出版されたディートリッヒの自伝によると、バカラックがツアー先として好んでいたのが当時のソ連(ロシア)とポーランドだったようだ。その理由として、バイオリニストが大衆から“とてつもない”敬意を払われ、アーティスト/ミュージシャンもそれに準じた扱いを受けることができたからだという。その他、パリ、スカンジナヴィアの国々もお気に入りだったようだ。
自分の活動を優先させるべく、60年代初頭にディートリッヒとの関係は消滅するのだが、それでも彼女はバカラックとの関係を“(ユダヤ教で言うところの)セヴンス・ヘヴン。男性として彼は女性が望むことすべてを実現してくれた。そのような殿方が、他に何人いるかしら?わたしにとって、彼は唯一無二なのです。”と、その心境を吐露している。
時期が前後するが、1957年にはバカラックのキャリアに大きな影響を与えるもう一つの出会いが。作詞家のハル・デイヴィッドである。1921年生まれのデイヴィッド。バカラックとは、NYの芸能関係者が多数集うブリル・ビルディングで知り合った。1957年、マーティ・ロビンスが歌った「The Story of My Life」で共作開始、USカントリー・チャートで1位を獲得する。
間髪入れずに発表されたペリー・コモの「Magic Moments」は全米シングル・チャート4位にランクイン。ちなみにUKシングル・チャートでこの2曲は連続して1位を獲得、作家の手による楽曲の初の連続1位という快挙となった。
1961年、バカラックはディオンヌ・ワーウィックを発掘。同年、Burt and the Backbeats名義でシングル「Move it on the Backbeats」をリリース。ディオンヌの妹ディー・ディーもシンガーとして参加したこの楽曲の歌詞を手掛けたのはハルの兄マック・デイヴィッド。
その後、ディオンヌの才能に惚れ込んで、より緊密な作家活動を始めた2人。提供楽曲は通算1200万枚を売り上げ、22曲のTop 40を生み出した。個人的には1969年リリースの「I’ll Never Fall in Love Again」が印象深いな。元々は68年にオープンしたブロードウェイ・ミュージカル「Promises, Promises」のために書かれた楽曲だ。ミュージカル・プロデューサーのデイヴィッド・メリックは当初同名楽曲でミュージカルは成功間違いなしと考えていたのだが、何とオープニングを翌日に控えているというのに(…)もう1曲、インパクトのある楽曲を頼む、とバカラック/デイヴィッドにお願い。肺炎で入院し、退院したばかりのバカラックは、それこそ“火事場の作家力”を発揮し、オープニングに間に合わせたという驚愕の裏話が残っている。
sara
1967年公開の007のパロディ/コメディ映画「Casino Royale 」のサントラをバカラックは手掛けているのだが、それからちょうど30年、同じく007をテーマにしたマイク・マイヤーズ主演「Austin Powers」第1弾が公開。バカラックは2、3作目にカメオ出演、2作目でエルヴィス・コステロと共に「I’ll Never Fall in Love Again」を、さらに3作目では「What the World Needs Now Is Love」を実に品よく披露している。
また、ワーウィックの残した楽曲で意外なものがもうひとつ。その後のポップ・ミュージックの歴史に燦然と輝くThe Carpentersで有名な「(They Long to Be ) Close to You」である。
sara
1963年にはすでにワーウィックがデモをレコーディング、翌年発表のアルバム「Make Way for Dionne Warwick」に収録。しかし、シングル・カットはされず。それから7年を経て、The Carpentersの2ndアルバム「Close to You」からシングル・カットされた同楽曲は兄妹デュオの出世作となり、Billboard Hot 100で4週連続奥1位を記録した。
そして、バカラック/デイヴィッドのコラボレーションのピークと呼べるのが、1969年公開の映画「Butch Cassidy and the Sundance Kid」(「明日に向かって撃て!」だよね、日本人には…)のテーマ曲「Raindrops Keep Falling on My Haed」(「雨にぬれても」)だろう。同年のアカデミー歌曲賞、作曲賞を受賞。“この曲を聞いたことない人っているのか?”というくらいの浸透度/認知度である。
sara
しかし、やはり“好事魔多し”のたとえに漏れず…1972年に2人は「Lost Horizon」という、1930年代のSF映画のミュージカル・リメイクのサントラを手掛けたのだが、映画はとんでもない失敗作となってしまう。そこで職人気質が過剰に反応してしまったのか、バカラックはプロデューサーのサントラへの不当な介入、そしてデイヴィッドからも協力的な態度が得られなかったと主張、なぜかお互いを訴えるという事態にまで発展。さらに厄介だったのが、この争いを受けて、巨匠2人から置いてきぼりを食らった形になり、所属レーベルのワーナーとの関係が悪化したワーウィックも巻き込んでの法廷闘争(550万ドルの訴え)となった。1979年、ワーウィックと2人の法的和解が実現したが、和解金額はがっちり500万ドル。何とも苦々しい最後、別れを迎えたのだった。2013年の自叙伝でバカラック曰く“この作品で自分は終わったと思いました…”
前述した1981年の「Arthur’s Theme」で、改めてその才能に衰えのないことを証明したバカラックだが、同楽曲に作詞者としてクレジットされているキャロル・ベイヤー・セイガーは当時のバカラックの妻。
そして、1985年にはワーウィックとチャリティ・シングル「That’s What Friends Are For」で念願の再会(作詞はセイガー)。82年にロッド・スチュアートが発表したシングルのカヴァーで、Dionne and Friends名義でのリリース。当時大きな社会問題となっていたAIDSの啓蒙/チャリティ作品で、ワーウィックの他にグラディス・ナイト、スティーヴィー・ワンダー、そしてエルトン・ジョンが参加。翌年に全米1位を記録、最終的に87年のグラミー賞を獲得する大ヒットとなった。
sara
ワーウィックは“わたしたちは、友人以上の存在ね。ファミリーと言って良い。時間というのは、人に成長と理解のチャンスを与えてくれるのよ。”と、どこまでも大人の女性のコメントを…
その後も、こちらも前述の、以前からバカラックの大ファンだったというエルヴィス・コステロとのコラボレーション作品「Painted from Memory」を1998年に発表。収録曲の「I Still Have That Other Girl」で、再びグラミーを獲得。集計すると、現在までに6度のグラミー、3度のアカデミー受賞という、これ以上はないというキャリアを確立している。
2000年代を迎えても、15年のグラストンベリー・フェスへの出演、翌年には16年ぶりとなるサントラ(「A Boy Called Po」)を手掛けるなど、元気なニュースが続々と。紡ぎ出すメロディはシンプルそのものだが、あくまでもさりげない職人技が散りばめられているバカラックの楽曲の数々。どうだ、オリンピックのために、ちょっと1曲…
ではまた次回に!
sara


● Profile:JIDORI

メジャーレコード会社の洋楽A&Rの経験もある音楽ライター。「INROCK」を始めとする洋楽系メディアで執筆中。ユニークで切れ味の鋭い文章が持ち味。
 
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