Vol.26 ASCAPの始まり
そして、この敏腕弁護士、ネイサン・バーカンはまた、レコードや自動ピアノに使用される楽曲の権利者が、1曲、1枚につき2セントずつを得られる事になったのは、本来権利者が得るべき収入なのに、使用者が支払っていない、いくつかの使用料の一つであり、他にももっと多くの“得るべき収入”がある事に気付いていた。
その最も大きなものが演奏使用料だった。ダンス・バンドの隆盛と共にポピュラー・ミュージックは、アメリカ中のレストラン、ナイト・クラブ、キャバレー、ダンス・ホールを初め、ありとあらゆる、オーケストラの出演する場所で演奏されるようになっていたのだが、そのどこからも、出版社や作詞家、作曲家は何の支払いも受けることはなかったのである。
勿論、こうした事の背景には、初期の音楽出版社が、自分のところで出版した譜面を売るために、その曲を人々に少しでも聞いてもらえるよう、そうしたオーケストラのリーダーやピアニストに、譜面を渡し、その曲を演奏してもらう事を依頼する、出版社のプロモーション活動があった事は事実である。彼ら(音楽出版社)は、オーケストラやバンドで演奏される事が、譜面を売る最も有効なプロモーションであると考えていた上に、そうした事から使用料を取れるなど、という事は思い及びもしなかったのだ。
しかし、1910年頃になると事情は違っていた。ありと、あらゆる所でオーケストラやバンドがヒット曲を演奏し、しかも権利者に対しては一銭も払っていないのだ。
1909年に施行された新著作権法は“著作物のいかなる再生も、すべて著作者の所有物であり、第三者がこれを自分の利益のために、著作者の許可なしに使うことはできない_”と定めてあった。この事からネイサン・バーカンは、演奏使用料も法律的には取れる、という見解を深めていた。
1913年のある日、このネイサン・バーカンの見解は、力強い味方を得たのである。イタリアの代表的出版社リコルディのアメリカの代表をしていたジョージ・マクセルである。ジョージは、ネイサンに、“ヨーロッパでは1871年以来、SACEM (Societe des Auteurs,Compositeurs et Editeur de Musique―作詞家、作曲家と音楽出版社の協会)という団体が存在し、音楽が演奏されるたびに、演奏使用料なり、印税が集められている、という事を指摘したのだ。
こうしたバック・グラウンドを持った彼らは、再び戦うために(前回はレコード会社や自動ピアノ会社が相手だったが、今回は、ホテルやレストランなど、オーケストラやバンドを出演させながら、演奏使用料を払っていないところが相手、という様に、戦う相手は変わっているが)、団体を組むことになったのである。再び、ビクター・ハバードが、例の説得力のあるところを買われて、作詞・作曲家を説き伏せる役になった。
1913年の10月、こうした努力が効を奏してようやく36人の作曲家、作詞家、出版社がニュー・ヨークの14丁目のユニオン・スクエアにあるレストランの中庭に集まる_というところまで同調者がふえた。しかし、当日急に雨が降り出したために(場所が野外という事だったので)多くの作家、出版社は顔を見せず、わずか9人が出席しただけだった。
だが、その9人は、一応、どういう組織を作る事が自分たちの権利と利益を守ることになるのかを話し合い、大体の骨組みだけを、この日話し合ったのである。
そして、翌1914年の2月13日、43丁目のホテル・クラリッジで改めて、会合が開かれた。この日22の音楽出版社と170人の作家がクラリッジ・ホテルに集まり、この団体をAmerican Society of Composers, Authors and Publishersと名付け、正式に発足させる事になった。
ASCAPの始まりである。
その最も大きなものが演奏使用料だった。ダンス・バンドの隆盛と共にポピュラー・ミュージックは、アメリカ中のレストラン、ナイト・クラブ、キャバレー、ダンス・ホールを初め、ありとあらゆる、オーケストラの出演する場所で演奏されるようになっていたのだが、そのどこからも、出版社や作詞家、作曲家は何の支払いも受けることはなかったのである。
勿論、こうした事の背景には、初期の音楽出版社が、自分のところで出版した譜面を売るために、その曲を人々に少しでも聞いてもらえるよう、そうしたオーケストラのリーダーやピアニストに、譜面を渡し、その曲を演奏してもらう事を依頼する、出版社のプロモーション活動があった事は事実である。彼ら(音楽出版社)は、オーケストラやバンドで演奏される事が、譜面を売る最も有効なプロモーションであると考えていた上に、そうした事から使用料を取れるなど、という事は思い及びもしなかったのだ。
しかし、1910年頃になると事情は違っていた。ありと、あらゆる所でオーケストラやバンドがヒット曲を演奏し、しかも権利者に対しては一銭も払っていないのだ。
1909年に施行された新著作権法は“著作物のいかなる再生も、すべて著作者の所有物であり、第三者がこれを自分の利益のために、著作者の許可なしに使うことはできない_”と定めてあった。この事からネイサン・バーカンは、演奏使用料も法律的には取れる、という見解を深めていた。
1913年のある日、このネイサン・バーカンの見解は、力強い味方を得たのである。イタリアの代表的出版社リコルディのアメリカの代表をしていたジョージ・マクセルである。ジョージは、ネイサンに、“ヨーロッパでは1871年以来、SACEM (Societe des Auteurs,Compositeurs et Editeur de Musique―作詞家、作曲家と音楽出版社の協会)という団体が存在し、音楽が演奏されるたびに、演奏使用料なり、印税が集められている、という事を指摘したのだ。
こうしたバック・グラウンドを持った彼らは、再び戦うために(前回はレコード会社や自動ピアノ会社が相手だったが、今回は、ホテルやレストランなど、オーケストラやバンドを出演させながら、演奏使用料を払っていないところが相手、という様に、戦う相手は変わっているが)、団体を組むことになったのである。再び、ビクター・ハバードが、例の説得力のあるところを買われて、作詞・作曲家を説き伏せる役になった。
1913年の10月、こうした努力が効を奏してようやく36人の作曲家、作詞家、出版社がニュー・ヨークの14丁目のユニオン・スクエアにあるレストランの中庭に集まる_というところまで同調者がふえた。しかし、当日急に雨が降り出したために(場所が野外という事だったので)多くの作家、出版社は顔を見せず、わずか9人が出席しただけだった。
だが、その9人は、一応、どういう組織を作る事が自分たちの権利と利益を守ることになるのかを話し合い、大体の骨組みだけを、この日話し合ったのである。
そして、翌1914年の2月13日、43丁目のホテル・クラリッジで改めて、会合が開かれた。この日22の音楽出版社と170人の作家がクラリッジ・ホテルに集まり、この団体をAmerican Society of Composers, Authors and Publishersと名付け、正式に発足させる事になった。
ASCAPの始まりである。