Vol.34 ティン・パン・アレイにおけるジャズの変化

このティン・パン・アレーに於けるジャズの変化(シミーからビッグ・バンド・ジャズに移って行った)は、前にも書いた通り、アメリカのポピュラー・ミュージックの一つの典型的なパターンそのままのプロセスをたどっているのである。

と、いうのは、アメリカのポピュラー・ミュージックは、短期的な一つの流行に於ても長期的な流れを見ても、常に、(1)黒人音楽の大きな影響を受けたエネルギッシュな音楽→(2)白人的に少し中和した音楽→(3)まったく黒人音楽の影響が表面に感じられない白人音楽→そして再び(1)→(2)→(3)という順に変化を繰り返すというパターンをとっており、ティン・パン・アレイのジャズ・エイジに於ける変化も、その通りになっているからである。

つまり、“シミー”は黒人じゃ図の影響を受けたエネルギッシュなものだったが、ポール・ホワイトマン楽団などのジャズは、ビートだけ、そうした黒人音楽の影響をとどめていたが表面的には白人的にソフィスティケイトされたものに変化し、グレン・ミラーやベニー・グッドマンなどのスゥイング・ジャズまでくると、非常に洗練されたスマートなものになってくる、といった具合である。

そして、これは単に、この時代のジャズだけの変化ではなく、ロックン・ロールでも同様のことが言える(エルヴィス・プレスリーやビル・ヘイリーとコメッツといったカントリー&ウエスタン―白人音楽―にリズム&ブルース―黒人音楽―の影響を非常に強く受けたロックン・ロール第一期から、ポール・アンカーやニール・セダカ、コニー・フランシスといった、バックのリズムはリズム・アンド・ブルース特有の粘りのあるものだったが全体としてはストリングスをバックに用いるなど、ソフィスケイトされたスマートなものに変化し、やがて、ナッシュヴィル・サウンドなどと呼ばれる、一応カントリー・ウエスタンにロックン・ロールのビートをプラスしたもの__とはいうものの、ブラウンズの「谷間に三つの鐘が鳴る」などに代表される、この頃のヒット曲からも判る通り、黒人音楽の影響なども影も形も見られないソフトでスィートな、純粋白人音楽に移ってしまっている)し、ビートルズの登場(イギリスのビート・グループの登場Z)から、フォーク、ロックの抬頭に至るプロセスも、サンフランシスコ・ロック(ブルース・ロック)から、1970年代初頭のカーペンターズやブレッドといったソフト・ロックやジェームス・テイラーなどのシンガー・ソング・ライターなどに至る変化のパターンも、すべて、上に記した(1)→(2)→(3)のルールに従っているのである。いわば、このポピュラー・ミュージックの中に於ける黒人音楽の要素がサイン・カーブのように増減を繰り返す図式こそ、アメリカのポピュラー・ミュージックの変化のゴールデン・ルールとでも言えるものではないかと思われるのである。

そして、このことはマーケットの方から考えてみると、(1)エネルギッシュで刺激的なものの登場→人々(新しいものに敏感な若い人たちが中心)の注意の喚起、(2)ソフォティケイトされ出す→より広範囲な人々に受け入れられるように、口当りをよくする作業、(3)もっと普遍的なものにして行く→もっと多くの人をターゲットとする(しかし、これはまた、極くあたり前のものとなり、人々にとっては刺激のないものとなるから、再び(1)の刺激が求められる__という繰り返しとなるわけである)、という極く当然の変化となるのである。(このことは、日本に於けるグループ・サウンズ時代の(1)ポップ・グループとしての登場→(2)歌謡曲的要素をふやす→(3)歌謡曲グループになる、という変化のパターンと、ある部分重なり合っているところがあるだろう)