Vol.38 大成功を収めた「学生王子」
このシグムンド・ロンバーグとウィットマーク音楽出版の間には、多くのティン・パン・アレイの音楽出版社が、素晴らしい美談として伝えている(そして、現代の出版社が、是非そうであって欲しい、と願っている)一つのエピソードがある。
それは、次週に詳しく記すが、1920年代初期になると、こうしたティン・パン・アレイの楽曲の使用者であるブロードウエーの劇場がよりアップ・タウンになったことにより、多くの音楽出版社が28丁目から、もっとアップ・タウンに移動を始める。勿論ウィットマーク社もその例外ではなかった。1923年、彼らは新しいビルに引越し、それと同時に大きく事業を拡大する計画を立てたのである。しかし、この引越しは予想外の大金を必要とし、その上、事業の拡大は、これまでとは比べものにならない出費を併った。
だが、ティン・パン・アレイの最初の会社といっていい、ウィットマーク社は、この年「I'm Goin' South」という曲と、今でも歌われている「California, Here I come」の2曲ヒットを出しただけで、他にはこれというヒットもなく、スタンダード曲もそれ程動かず、最悪の業績といっていい状況にあったのである。
こうした両方からの悪い条件が重なったため、1924年には最悪の状況を避けきれそうもないように見えた。ウィットマーク社の弁護士さえも破産の手続きをしよう、と勤めた程だった。
こうした状態のウィットマーク社を見ていたら彼らの競争相手の出版社の一つが、シグムンド・ロンバーグに、“もうツブれそうなウィットマークなんか辞めて、うちに来ないか?”と誘ったのである。“どうせ、あんな状態だから、契約を破ったとしても、作家の権利を守るため、といえば、絶対に負ける心配はないから__”と、いう言葉と、裁判費用一切と、それでも、もしウィットマークから損害賠償を要求された時の金額全部、プラスボーナスとして5万ドルを支払うから、というオマケを付けて__。
しかし、シグムンド・ロンバーグは、こうした誘惑の声に一切耳を傾けなかった。彼は“自分はウィットマークと現在契約している以上、この契約が終るまではウィットマークと一緒にやる__”と自分の才能に目を付け、売り出すのに力となってくれたウィットマークとの関係を重視したのである。
そして「学生王子」は、ウィットマークの財産として、オープニングを迎え、その後600回を越えるニュー・ヨークでの公演と、9つのグループによる全米各地での公演、という大成功を収めることになるのだ。この数々の美しいメロディーの宝庫とも言える「学生王子」は、結局、800万ドル以上のお金を、その後ウィットマークにもたらす事になるのである。
もし、シグムンド・ロンバーグが他の出版社の誘いに乗っていたら、ウィットマーク社は間違いなく破産していたことだろう。(そして「学生王子」はウィットマーク社ではなく他の出版社から発行されていた、としても大ヒットとなっていただろう)しかし、ロンバーグは、これまでの関係の方をとったのである。
この成功で、ウィットマーク社は見事に立ち直り、新しい発展をその後また続けているし、シグムンド・ロンバーグの「ザ・デザート・ソング」や「ニュー・ムーン」の中の数々の曲は、そうした発展のために必要な資金調達に少なからぬ保証となったことは確実だろう。
ティン・パン・アレイ初期から、新しい方向を見つけ出し、意欲的な姿勢を持っていたウィットマーク社だからこそ、こうした関係を保ち得たのである。