Vol.39 ティン・パン・アレイの新しい移動

1919年、アーヴィング・バーリンが自分の出版社を設立した。このこと自体は珍しいことではなかったが、彼の新しい会社はオフィスを28丁目通りに置かず、より劇場のかたまっているブロードウェーの一画にスペースを持ったことは、一つの時代の変化を告げていた。

それまでティン・パン・アレイは、ずっと劇場の移動に従って、その場所を移してきていた。14丁目のユニオン・スクエアから28丁目にティン・パン・アレイが移ったのも、前にも書いたが劇場の移動によるものである。第一次世界大戦の後、同じことがもう1度起ったのである。

ミンストレル・ショーは、アメリカ全土でわずか6つか7つのグループを残すだけ、といった状況になっており、もう殆んど死にかけている、といった状態になっていたし、ヴォードヴィル・ショーも、やはり中心から消え去りかけていた。1926年には、わずか12の劇場しかヴォードヴィル専門として存続していなかった上にヴォードヴィル・ショーのメッカと言われていたパレス・シアターは、ヴォードヴィルと共に映画も上映しだし、時代が変わったことを確実に語っていた。

こうした結果、ティン・パン・アレイの曲の主なユーザーは、オペレッタ(これも間もなく脇役の座に引っ込んで行くことは前に書いた通り)、ミュージカル・コメディー、レビュー、といったものに移っていったのである。そして、こうした劇場の中心地もブロードウェーの40丁目から50丁目の間にまとまって来ると共に、28丁目に音楽出版社があるということ自体、少なからず不便を生ずるようになってきたのは当然の成り行き、といえるだろう。

1920年代の半ば頃までに、レオ・フェイスト・ミュージックとしミック・ミュージックは西40丁目にそのオフィスを移していたし、ハームス音楽出版は西44丁目、フォン・ティルツァー・ミュージック、アーヴィン・バーリン・ミュージック、ウィットマークなどはブロードウェー通りに面した、この区画(40丁目と50丁目の間)に、それぞれ新しい事務所を持つようになっていた。

そして、この新しい移動は、1900年代以来続いていた、一つの通りに出版社がかたまっている、といった形を破り、初めてティン・パン・アレイが分散しだした、記念すべき動きであると言える。しかし、この、以前よりも広い範囲にわたって分散した出来事は、実際のティン・パン・アレイの形態には何の影響も与えず、多くの出版社は、それまでの一つの通りに集中していた時と同じように、同じプログラムでオペレートされ、同じゴールを目指して向う、という、一つのトータルなイメージを全体としては創り続けていたのである。28丁目はもはや歌の通りではなくなっていたが、ティン・パン・アレイは以前として存続していたのである。

1920年以降に設立された新しい出版社には、ゼズ・コンフレイのピアノ、ラグなどを出版していたジャック・ミルズInc.、作曲家フレッド・フィッシャー自身によって設立されたフレッド・フィッシャーInc.、初期のティン・パン・アレイで歴史的な活動をしていたジョセフ・W・スターン&カンパニーの後身であるエドワード・B・マークス・ミュージック・カンパニー、モーリス・リッチモンドが始め、後に大出版社の一つになる、モーリス・リッチモンド・カンパニー、イェーレン&バーンスタイン__etcなどなどがあった。

こうした新しい出版社の多くは、ブロードウェーの劇場街の中、あるいはその近くにオフィスを設けていた。