Vol.40 プロフェッショナル・パーラーの果たした役割
そして、こうしたよりアップ・ダウンに移動した音楽出版社は、地理的条件を新しくしただけでなく、音楽出版のビジネスに於けるテクニックでも新しいものを生み出していったのである。
例えば、ジャック・ロビンスは、音楽出版という楽曲のセールス・ビジネスにとって、有名なバンドがいかに有効な存在であるか、という事に気付いて、それを取り入れた最初の1人である。彼は、ヴィンセント・ロペスにバンドを始めさせるよう勧めた人物であるばかりでなく、ポール・ホワイトマン・オーケストラをレコード業界に売り込んだ男であり、ジョージ、オルセン・オーケストラを有名にするのに大きな力となった人間でもあるのだ。勿論、彼と彼の出版社が、こうしたバンドが有名になる事によって、得た利益は計り知れないものである。
こうした、新しい動きに一早く目をつけそれに対して積極的に手を貸して、その結果生ずる果実の分け前をとる、ろいうのは音楽出版者が常に行ってきたことであり、このビッグ・バンド時代にも、そうした音楽出版社が存在していたわけだ。
ソング・プラッガーの小さな仕切りで囲まれた部屋も、歌手やアーティストが気軽に立ち寄って新しい曲を聞くのに、少しでも気分がいいように、と洒落た、スペースの広いパーラー形式のものに変えられていったのも、アップ・タウンのブロードウェー周辺に移った出版社の考え出したアイデアの一つである。そして、アーティストが一寸気に入った曲を練習してみるリハーサル・ルームも備えられるようになっていた(従って、28丁目から40丁目~50丁目にオフィスを移した音楽出版社は、殆んど例外なく、そのオフィス・スペースを拡大し、作りを豪華にしているのである)。こうしたエレガントなパーラーには、グランド、ピアノが備えられ、その会社の専属作家ばかりでなく、他の社のスタッフ・ライターも集まり、お互いに作品を批評し合う、といった、一種の社交場のような性格をももっていた。
こうした1920年代のプロフェッショナル(曲をアーティストやプロデューサーに対して売り込む作業をプロフェッショナル・ワークと一般的にアメリカの音楽出版界では呼称している)、パーラーの中で最も素晴らしいものの一つは、西45丁目の62番地にあったハームス音楽出版のものだった。ここには、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュイン、リチャード・ロジャース、ヴィンセント・ユーマンス、そして少し後になってからは、コール・ポーター__といったティン・パン・アレイのビッグ・ホームが集まっていた。
彼らは、昼過ぎにフラリとこのハームスのパーラーに立ち寄り、音楽の話、新しい商品の話、買物の話、世の中の動き__といった会話をここで交すのを一つの週間のようにしていた。
ジョージ・ガーシュインは中でもよく顔を見せ、1週間に数回はパーラーにいるガーシュインの姿が見られた。そして、そうしたガーシュインと話をしたりするために多くの(新人、中堅、ヴェテランを問わず)作家が、ガーシュインをとりまいているのが常だった。ハリー・ルビー、バディ・デ・シルヴァ、ヴィンセント・ユーマンス、アーサー・シュワルツ、ヴァーノン・デューク、そしてハロルド・アーレンといった人たちが、そのガーシュインのまわりに集まる作家の顔ぶれの主だったところだった。
このパーラーに集まる多くの作家にジョージ・ガーシュインは新しく作曲した曲や、今、自分が制作途中の曲のモチーフなどを聞かせていた、というとこである。
そして、こうした雰囲気がまた新しい作家の誕生をうながしたのである。