Vol.9 急激に進歩した楽曲プロモーション
こうした若い会社によって、まず最初に急激に進歩させられたのが、楽曲のプロモーションという分野だった。彼らは、ヒットは生まれるものではなく、作られるものだ、という事を理解していたので、自分たちの曲が歌われ、人々に好まれる(そして、その結果、譜面が売れる)ための、ありとあらゆる方法をとったからである。
彼らがやったのは、まず、ありとあらゆるナイト・スポットに出向いて、自分たちの歌を歌い、そこのお客たちに曲を憶えてもらい、その曲がミュージック・ホールの歌手によって歌われるようにすることだった。
こうした自分のところの曲を歌って宣伝する人間をソング・プラッガーといったが、E・B・マークス、J・W・スターン、T・ハームス、J・ウィットマーク、L・フェイストといった、これらの若い会社の経営者はまた、そのまま自分の会社のソング・プラッガーとしても働いていた。
彼らは夕方から朝まで、音楽が聞かれる所をくまなくまわって歩いていた。サロン、女郎屋、劇場、レストラン、ビアー・ホール、といった場所を。ある場所では、そこに出演しているミュージシャンに酒をおごり、歌手にはゴマをすって自分の曲を歌ってもらい、オーケストラのリーダーやヴォードヴィリアン、或いは歌うウエイターに、葉巻を箱ごとプレゼントしたり、食事をおごったりして、自分の曲を取り上げてもらうことを頼むというのも方法だった。このため、ドッグ・ショーのマネージャーでさえ、ショーの伴奏に、この曲を使うから、何かプレゼントが欲しい、とねだるようになっていた。当然ながら、影響力の大きい、ブロードウェーのミュージカル劇場や、ヴォードヴィルのビッグ・スターなどは、より高価な贈り物をもらっていた。(後にはキャッシュになるのであるが…)。
ある意味では、こうした場所を何軒かまわれるか、が、自分たちの曲が、どの位ポピュラーになるか、ということのバロメーターでもあった訳だ。J・W・スタイン&カンパニーの二人、E・マークスとJ・スターンは、それぞれ週に60軒と40軒ずつまわって、自分たちの曲をプロモートしていた、という。
1883年頃に始められ、それから数年間流行したソング・プラッキングの一つに、”シンギング・ストゥージ”というのがある。
これは、普通少年歌手を客席にもぐり込ませておき、ステージの上の歌手が歌を歌い終ると同時に、(その曲のパブリッシャーの命を受けた)少年が、まるで、いかにも今の歌に感動したから、思わず立ち上がった、といった様子で椅子から立ち上がり、その曲のリフレインの部分を歌い出すのだ。ピン・スポットが、この少年に当てられると、観客は自然に、この少年に拍手をする、すると少年は、それに応えて、何回も何回も、リフレインを繰り返し、観客にすっかりメロディを憶えさせてしまう、という方法だ。 Stoogeという語は、観客の中にまぎれ込んで、うまく主役をひきたてる役、という意味を持っている)
ティン・パン・アレイの代表的な作曲家として、又パブリッシャーとして後年知られるようになるガス・エドワーズは、14才の時からハーティング&シーモンのバーレスク劇場でこのシンギング・ストゥージをやっていたし、これまたティン・パン・アレイと切り離せない大作曲家、アーヴィング・バーリンもトニー・バスターのミュージック・ホールで、ハリー・フォン・ティルツァーの出版社のために、シンギング・ストゥージとして働いていたのである。バーリンは、「ザ・スリー・キートンズ」というアクトーの一部分に出ていたのだが、この3人の中で一番若いキートンズが、あのバスター・キートンだった。
彼らがやったのは、まず、ありとあらゆるナイト・スポットに出向いて、自分たちの歌を歌い、そこのお客たちに曲を憶えてもらい、その曲がミュージック・ホールの歌手によって歌われるようにすることだった。
こうした自分のところの曲を歌って宣伝する人間をソング・プラッガーといったが、E・B・マークス、J・W・スターン、T・ハームス、J・ウィットマーク、L・フェイストといった、これらの若い会社の経営者はまた、そのまま自分の会社のソング・プラッガーとしても働いていた。
彼らは夕方から朝まで、音楽が聞かれる所をくまなくまわって歩いていた。サロン、女郎屋、劇場、レストラン、ビアー・ホール、といった場所を。ある場所では、そこに出演しているミュージシャンに酒をおごり、歌手にはゴマをすって自分の曲を歌ってもらい、オーケストラのリーダーやヴォードヴィリアン、或いは歌うウエイターに、葉巻を箱ごとプレゼントしたり、食事をおごったりして、自分の曲を取り上げてもらうことを頼むというのも方法だった。このため、ドッグ・ショーのマネージャーでさえ、ショーの伴奏に、この曲を使うから、何かプレゼントが欲しい、とねだるようになっていた。当然ながら、影響力の大きい、ブロードウェーのミュージカル劇場や、ヴォードヴィルのビッグ・スターなどは、より高価な贈り物をもらっていた。(後にはキャッシュになるのであるが…)。
ある意味では、こうした場所を何軒かまわれるか、が、自分たちの曲が、どの位ポピュラーになるか、ということのバロメーターでもあった訳だ。J・W・スタイン&カンパニーの二人、E・マークスとJ・スターンは、それぞれ週に60軒と40軒ずつまわって、自分たちの曲をプロモートしていた、という。
1883年頃に始められ、それから数年間流行したソング・プラッキングの一つに、”シンギング・ストゥージ”というのがある。
これは、普通少年歌手を客席にもぐり込ませておき、ステージの上の歌手が歌を歌い終ると同時に、(その曲のパブリッシャーの命を受けた)少年が、まるで、いかにも今の歌に感動したから、思わず立ち上がった、といった様子で椅子から立ち上がり、その曲のリフレインの部分を歌い出すのだ。ピン・スポットが、この少年に当てられると、観客は自然に、この少年に拍手をする、すると少年は、それに応えて、何回も何回も、リフレインを繰り返し、観客にすっかりメロディを憶えさせてしまう、という方法だ。 Stoogeという語は、観客の中にまぎれ込んで、うまく主役をひきたてる役、という意味を持っている)
ティン・パン・アレイの代表的な作曲家として、又パブリッシャーとして後年知られるようになるガス・エドワーズは、14才の時からハーティング&シーモンのバーレスク劇場でこのシンギング・ストゥージをやっていたし、これまたティン・パン・アレイと切り離せない大作曲家、アーヴィング・バーリンもトニー・バスターのミュージック・ホールで、ハリー・フォン・ティルツァーの出版社のために、シンギング・ストゥージとして働いていたのである。バーリンは、「ザ・スリー・キートンズ」というアクトーの一部分に出ていたのだが、この3人の中で一番若いキートンズが、あのバスター・キートンだった。