COLUMNコラム

JIDORIの洋楽雑考

いろいろな切り口やテーマで、音楽ライター、JIDORIが洋楽を斬る!
Vol.02

祝!来日 ブライアン・セッツァー 〜 海を渡ったリーゼント

2017.12.26
ブライアン・セッツァー
皆元気? 洋楽聴いてる?オレ、Jidori。ようやく当コラムのウェブ連載がスタート...したと思ったら、あっという間に年末だ。月日の流れのスピードに追いつけない。 で、今回のテーマに選んだのは、2018年1月に来日が予定されているブライアン・セッツァー。1990年にスタートさせた自らの名を冠したプロジェクト、ブライアン・セッツァー・オーケストラを率いての来日である。キャリアの長さは相当なものなので、もうかなりの年齢かと思えば、まだ還暦前(58歳)という事実にはビックリする。1981年のStray Cats デビュー時、まだ20歳そこそこだったんだな。
Stray Cats はブライアン(G/Vo)、リー・ロッカー(B)、スリム・ジム・ファントム(Dr) のトリオで、元々はNY州の出身。エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセントら、オリジナル・ロカビリー・アーティストに大きな影響を受けていたのだが、懐古趣味に終わらず、いわゆる"ネオ・ロカビリー"を代表するアーティストにまで成長した裏には、若さゆえの無謀さに、時代の流れが奇跡的に味方したことが大きい。
地元NYでは、結成まもなく話題となり、CBGB などの名門クラブを主戦場としていた彼らだったが、ある日"ロンドンでロカビリーが盛り上がる...らしい"という、実に不正確なニュースを耳にする。 普通なら、アメリカでのデビューを決めてから渡英するのが常識的だと思うのだが、いきなり移住。無鉄砲にも程があろうというものだが、そこで彼らを待っていたのが、Rolling Stones やThe Who 、その後ブライアンがメンバーとして参加したHoneydrippers のリーダー、Led Zeppelin のロバート・プラントらの大絶賛だったワケだ。 そして、彼らの運命を決定付けたのは、やはりプロデューサー、デイヴ・エドモンズとの出会いだろう。ニック・ロウらと組んだユニットRockpileやソロ活動に加え、プロデューサーとしても活動していたデイヴのラヴ・コールに応え、バンドはレコーディングを開始、1981年にファースト・アルバム「Stray Cats」をイギリスでリリース。 ここで強調すべきは、彼らが単なるロカビリーの焼き直しにとどまらない、非常にオリジナルな音楽性を持っていた点だ。ポスト・パンクからニュー・ウェイヴに移行する途中のイギリスに身を置いていたことで、彼らのデビュー時の楽曲には、ロカビリーのハッピーさと同時に、ロンドン特有の冷たさも同居している。 セカンド「Gonna Ball」はファーストほどの勢いを見せることはなかったのだが、再びバンドに神風が吹く。イギリスで発売されていた2枚のアルバムをコンパイルする形で、アメリカでのデビューが決定したのだ。いわば逆輸入的にアメリカにカムバックする形。最近は、こういう劇的なストーリーを持つバンドが少ないよね。 で、アメリカ・デビューの1982年というと、前年にMTVが開局、プロモーション・ビデオの重要性がにわかにクローズアップされ始めた時期。メンバー全員が美麗なルックスを持つ彼らも精力的に映像制作に取り掛かる。"第2期ブリティッシュ・インヴェイジョン"で大活躍したイギリス産グループ、Duran Duran、Culture Club などを思い起こさせるような形で、遂に世界的にブレイク。 しかし、劇的過ぎた活動が災いしたのか、1984年にバンドは解散。その後は散発的な再結成を繰り返す一方で、ブライアンはソロ活動を本格化させる。オールディーズ愛が昇華しまくった1998年の作品「The Dirty Boogie」では、グラミー賞2冠を達成!ますますの円熟ぶりはお見事です。
ブライアン・セッツァー
ミニマム編成で尖りまくっていたStray Cats も十分クールだったが、今のリラックスしたビッグ・バンドはブライアンの多様な音楽性を楽しめる。Swing の準備はお早めに。では、また次回に!

▲ 20 -ベスト・オブ・ブライアン・セッツァー・オーケストラ-

▲ ロカビリー・ライオット: オール・オリジナル

 

● Profile:JIDORI

メジャーレコード会社の洋楽A&Rの経験もある音楽ライター。「INROCK」を始めとする洋楽系メディアで執筆中。ユニークで切れ味の鋭い文章が持ち味。
 
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