COLUMNコラム

History of Tin Pan Alley

「ティン・パン・アレイの歴史」は、音楽業界紙「オリコン」に1979年3月12日号から64回にわたって連載をさせて頂いたものです。

株式会社フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎 株式会社フジパシフィックミュージック
代表取締役会長 朝妻一郎
Vol.54

結びつく音楽業界とディスク・ジョッキー

 どういう事態が生じたのか、というと、このフィル・ハリスの「The Thing」というレコードのテスト盤をハリー・リッチモンドは25人親しくしていたディスク・ジョッキーに送ったのだが、そのうちの1人がボストンの D.J、ボブ・クレイトンであり、そのテスト盤が送られてすぐにボストンで鉄道ストライキが起こったために、ボストン近辺でこのレコードを持っているのは、ボブ・クレイトン1人、という数日間が偶然にも誕生したのである。クレイトンはこのチャンスを逃さなかった。“このレコードは他の放送局のどの番組でも聞けない__”という強みを最大限に利用したのである。彼はそのストの間、毎日1時間に1回は必ずこの曲を流し続けたのである。この結果、ボストン近辺のレコード店には、このフィル・ハリスのレコードを買いに来る客がアッという間にふえ出した。しかし、店にはレコードがなく、レコードがないとなると、客は一層ボブ・クレイトンの番組を楽しみにし、何とかニュー・ヨークからレコードを取り寄せろ__とレコード店にプレッシャーをかける、というヒット曲の生まれる一つの典型的パターンが出現したのだ。そして遂には客からの注文に音を上げたボストンのRCAレコードのディストリビューターは、自分のところの特別トラックを仕立てニュー・ヨークに、その日までのオーダー分20.000枚を取りに行く、という結果を残している。勿論、ボストンでのこのヒットのニュースはすぐに全米に伝わり、このレコードは全米でもかなりのヒットとなったことはいうまでもない。
  勿論音楽出版社としてディスク・ジョッキーを自分たちの陣営にひき込んで、自分たちの出版した曲のレコードを放送してもらおうと考えた人は、このTRO エセックスのハリー・リッチモンドの後にも続々と出現している。中でも有名なのは、チェス・レコードの社長レナード・チェスであろう。レナードは自分の経営するレコード会社に所属するアーティスト、チャック・ベリーを、より広く有名にし、彼のレコードをヒットとするためには、当時「ムーン・ドッグ・ショー」という呼び名で知られていたリズム&ブルースのレコードを中心に放送することで若い白人の間でもよく聞かれていた人気番組のディスク・ジョッキー、アラン・フリードの力を借りることを思いついたのだ(彼らは、それまでも個人的にはよく知っていたのである)。そこでレナード・チェスは、昔ティン・パン・アレイの音楽出版社が、ヴォードヴィル・ショーの有名な歌手に、自分のところの曲を歌ってもらおう、とした時にとったのと同じ方法-つまり、既に殆んど出来上った曲や詞に対し、意見を求めて、そのアドヴァイスを入れたマイナー・チェンジを詞やメロディーに施し、変りに、その歌手に作家のクレジットを与え、作家印税の何%かが入る、というやり方-をとったのである。この結果、アラン・フリードは、チャック・ベリーの1954年のシングル盤「メイベリーン」の作家の1人としてクレジットされることになり、この曲はレナード・チェスの望んだ通りのヒットとなったのである(但し、このアラン・フリードに対する印税は、彼の死後、ウヤムヤになってしまったらしく、アランの息子、ランス・フリードは、この曲の印税を全然受取っていない、といっている)。
  これが、もう少し時代が経ってくると、音楽出版社や音楽業界とディスク・ジョッキーの関係は、もっと複雑なものになって来る。
  例えば、「アメリカン・バンド・スタンド」という全米ネット・ワークの人気番組のホストとして、並のアーティストより大きな人気を持つようになる D.J、ディック・クラークなどは、アラン・フリードのように表面には名前を出さず、しかもアラン・フリードが作家として得ていた収入の数倍の所得を上げていたのである。

 

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