COLUMNコラム

History of Tin Pan Alley

「ティン・パン・アレイの歴史」は、音楽業界紙「オリコン」に1979年3月12日号から64回にわたって連載をさせて頂いたものです。

株式会社フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎 株式会社フジパシフィックミュージック
代表取締役会長 朝妻一郎
Vol.1

はじめに --- ティン・パン・アレイとは

1903年にモンロー・ローゼンフェルドというニュー・ヨーク・ヘラルド紙の新聞記者が、自分の友人で、当時人気作曲家だったハリー・フォン・ティルツァーなどの活動を中心にして、アメリカのポピュラー・ミュージックに関する連載記事を書こうとしていた。そのコラムのタイトルを何にするかを、ニュー・ヨークの5番街とブロードウェーの間を横に走る28番通りの西45番にあった、ハリーの事務所(ハリー・フォン・ティルツァーの音楽出版社)で考えていた。
  モンローは、横でハリーの弾くピアノの音におり重なるように隣の事務所、他の出版社から聞こえてくるピアノの音が、ガチャガチャと鳴っているのが、まるで、プリキのオモチャがガチャガチャと音を立てているのと同じような響きを作っているのに、「うるさいナ、まるでブリキのオモチャがガチャガチャ鳴っている横丁じゃないか・・・(”This Whole Street is like a tin pan alley・・・”)」と言ってみて、フト、自分の言った言葉のTin Pan Alleyという言葉が、そのあたり一帯の音楽出版社の雰囲気を的確に表しているのに気づいたのだ。

  こうして、ティン・パン・アレイと題さるモンロー・ローゼンフェルドの記事の連載が始まり、28番通りの5番街とブロードウェイにはさまれた、音楽出版社が集まっていた一帯は、ティン・パン・アレイという名で呼ばれるようになったのである。(その後、1932年に、もっとアッパー・マンハッタンの、ブロードウェイの1619番街に、プリル・ビルディングが建設され、ミルズ・ミュージックをはじめとする、多くの出版社が、この中に事務所を持ち出し、13階建てのビルの中の80%以上が音楽関係者の事務所となると共に、ティン・パン・アレイの指す地域も、このプリル・ビルディングを中心とする一帯に変わってくるのだが・・・)。

  ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley)---という言葉が持つ、一種独特な響きは、ロックン・ロール以前のアメリカン・ポップス(それがブロードウェー・ミュージカルであれ、スウィング・ジャズであれ、フランク・シナトラやピンク・クロスビーといったヴォーカルの何であれ)に親しんだ人にとっては、何とも言えないノスタルジックな雰囲気を持って、心の奥底にある何かに迫るものがあるに違いない。

  と、いうのは、1950年代の半ばにロックン・ロールが登場するまで、ティン・パン・アレイは即、アメリカン・ポップ・ミュージックの誕生してくる唯一の場所と言われ、ティン・パン・アレイの変化は即、アメリカン・ポップスの変化と言われ、ティン・パン・アレイとアメリカン・ポップ・ミュージックはまるで同義語のように扱われ、ティン・パン・アレイという言葉は、そうした音楽関係の雑誌や記事の中で頻繁に使われていたからである。

  それが、ロックン・ロールの登場と共に、ティン・パン・アレイはアメリカン・ポップス・シーンに於て以前程の影響力を持たなくなった、と言われ出し、もう何年も以前からアメリカの音楽産業の中でも、ティン・パン・アレイという言葉自体、殆んど使われなくなって来てしまっている。
  果して、ティン・パン・アレイはどうしてしまったのだろう?一体、ティン・パン・アレイとは何だったのだろうか?ティン・パン・アレイを抜かして語ることができない、と言われているが、どうしてなのだろうか?現在でもティン・パン・アレイというものは存在しているのだろうか?   それらを知るために、ティン・パン・アレイの歴史を一度見てみるのも、決して無駄ではないだろう。

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