COLUMNコラム

History of Tin Pan Alley

「ティン・パン・アレイの歴史」は、音楽業界紙「オリコン」に1979年3月12日号から64回にわたって連載をさせて頂いたものです。

株式会社フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎 株式会社フジパシフィックミュージック
代表取締役会長 朝妻一郎
Vol.2

1880年前後から新しい時代の音楽出版社登場

19もし1880年前後に起った新しい時代の音楽出版社の登場!ということがなかったら、今日のティン・パン・アレイは存在していなかったといえる。というのは、こうしたパブリッシャーが古い保守的な出版社に対して経営やオペレーションの新しく、進取の精神に富んだ方式を持ち込んだからである。例えば、それまでの音楽出版社の多くは、クラシック音楽や学校の教科書、といったものをメインとし、ポピュラー・ミュージックの譜面は、ほんの片手間に扱う、というのが殆んどだった。
  彼らは、オフィスにただ坐っているだけで曲が流行し、譜面が売れるのを待っていたのである。外に出ていい曲を探す、ということも、何かこれから行われる大きなイヴェントに合せて企画物の曲を作り出す、ということも、自分たちの出版した曲をミンストレルズ・ショーに売り込んだりする、ということも一切せず、すべて偶然に頼っていたのである。

  そのいい例が、スティーブン・フォスターの「スワニー・リヴァー」と「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」だ。この曲は、”出版社は印刷機を2台、時には3台をフルに回転させていたが、それでも注文には追いつかなかった…。”と、1852年の「ミュージカル・ワールド」という業界紙に記されている程のベスト・セーラーとなった。これらの譜面は、それぞれ発行後1年も経たないうちに50、000部以上も売り上げる大ヒットとなったが、実際にこうした曲をショーで使ってもらうように頼んでまわったのは、出版社のファース・ポンド&カンパニーではなく、フォスター自身だった。

  つまり、1880年前後に新しいジェネレーションの(ポップ・ミュージックだけを専門とする)音楽出版社が登場する以前の出版社は、

  1. ポピュラー・ソングの広告など一切行わない。
  2. その曲の存在を譜面を買う人や譜面を使う人(ミンストレルズ・ショーの歌手など)に対してプロモートする人間も存在していない。
  3. ポピュラー・ソングは、ほんの片手間の仕事であり、メインはクラシックやメソッド・ブックの出版だった。
  4. 主としてシカゴ、ボストンといった東部の都市に存在していた。

…といった、大きなカッコでくくる事の出来る特色を持っていた、といえるのである。

  しかし、1880年前後から1890年代にかけて新しいコンセプトを持ったポピュラー・ソング・パブリッシャーが続々と登場するようになる。彼らの多くは、自分自身作曲家で1曲15ドルから25ドルで既成の出版社に曲を売り渡し、その後その曲がヒットすると出版社だけが大儲けをしているのを実際に体験していて”それだったら自分で出版社をやった方がいい…”と考えた人たちだった。
  が、また中には、印刷業をやっていてこうしたポピュラー・ソングの出版が儲かる、と考え始めた人もいたし、他の業界でセールスマンをやっていた者が、”これこそまだ未開の分野だから、自分のエネルギーとノウ・ハウを注ぎ込めば、もっともっと大きなビジネスとすることができる…”と考えてこの業界に入って来たケースもあった。
  こうした新しい出版社の最初のグループには、フランク・ハーディング、T・B・ハームス、ウィリィス・ウッドワード、ジェイ・ウィットマーク、チャールス・K・ハリス…といった人々がいた。

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