COLUMNコラム

History of Tin Pan Alley

「ティン・パン・アレイの歴史」は、音楽業界紙「オリコン」に1979年3月12日号から64回にわたって連載をさせて頂いたものです。

株式会社フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎 株式会社フジパシフィックミュージック
代表取締役会長 朝妻一郎
Vol.3

台頭する新しい時代の音楽出版社

新しい音楽出版社として最初にその存在を人々に知らせたのは、フランク・ハーディングだった。父親がニュー・ヨークのバワリーでやっていた出版社を1879年に継いだのだ。彼が新しい時代の音楽出版社の一員と称されるのは二つの理由からである。
  一つは、彼がポピュラー・ミュージックを専門とし、ポピュラー・ミュージックを通じて成功していったこと、そしてもう一つは、この業界で最初に作家を大事にし、面倒をちゃんとみることが、ヒット曲を生み出すのに必要なんだ、ということに気付いた一人であるということだ。
  フランクは彼のオフィスをニュー・ヨークの作詞・作曲家のたまり場にした。作家はそこへポーカーをしに来たり、酒を飲みに来たり、あるいは単に雑談のために来たりして、そうした度の何度かに一度は、フランクのために曲を書いて持って来たのである。彼は作家から曲を渡される度に作家に代って酒代を払っていたが、いつもその代金が10ドルを越えることはなかった。
  フランク・ハーディングは、こうしてJ・P・スケリー、ジェームス・ソートン、モンロー・ローゼンフェルドといった作家から素晴らしい曲を手に入れ、ヒット曲を出していったのである。

  T・B・ハームスとウイリス・ウッドワードもまたポピュラー・ソング中心に成功し、ビジネスに新しいビジョンを持ち込んだ若い音楽出版社だった。
  1881年に設立されたT・B・ハームス、最初の数年はいくつかのマイナー・ヒットを出すだけの目立たない出版社だったが、1880年代の半ば頃にステージ・ミュージックに力を入れだし、一つの特色を打ち出した。そして1892年にハームスは、ヒットしたブロードウェー・ミュージカルの譜面の権利を持つことは、油田を掘り当てるのと同じくらい儲かるものである、という事を発見した最初のティン・パン・アレイの出版社となるのである。この貴重な教えをニュー・ヨークで650回も公演され、アメリカ各地でも1年以上にわたって巡業が行われた「ア・トリップ・オブ・チャイナタウン」を通じてハームスは学びとったのだ。
  ハームスが、この中の曲「The Bowery」、「Reuben, Reuben」、「Push Dem Clouds Away」の3曲を出版したところ、当時としては、天文学的ともいえる何十万枚という数字の売り上げ枚数が、それぞれの曲でアッという間に達成されたからである。これはブロードウェーの歴史に於てもアメリカン・ポピュラー・ソングのそれに於ても初めてのことだった。そして当然のことながら、T・B・ハームスの後を追って多くの音楽出版社がミュージカル劇場に熱心に接近しだし、ミュージカルの中の曲の出版権を取りだしたのである。

  T・B・ハームスが、ターゲットをミュージカル・シアターにしぼって成功したのと同様に、ウイリス・ウッドワード&カンパニーは、その音楽的ソースをセンチメンタル・バラードに求めていた。勿論、センチメンタル・バラードそのものは、古くから親しまれ、特に南北戦争やスティーブン・フォスターの影響もあって広く知られていたし、1890年代に入ると多くの有力なティン・パン・アレイの音楽出版社は、センチメンタル・バラードを礎石として、その上に事業の柱を建てていっているのだが、1890年以前に譜面によって、こうしたバラードを本格的に取り扱っていこうという姿勢をとっていたのは、ウイリス・ウッドワードだけだった。そして、このウイリス・ウッドワードの音楽出版社としての活動は、またいくつかの重要な影響を生み出すのである。

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